TVアニメ版AIR最終回 そら-air-

ちょっと言葉になりそうもないです
ちょっとだけ見てすぐ寝るつもりだったのに朝から美少女アニメの感想書き。こんな体調よくないときに見たことを後悔。

以下、いつもに増して電波な文章
「私、頑張ってよかった」という観鈴ちんの台詞は、あの原作の長大なシナリオ中においては(直後に演出が最高潮に達する「ゴール」が存在することも相俟って)さほど印象付けられにくいものである。だが、Dream編をフラッシュバックさせたアニメ版においては、いたく涙腺を刺激するアイテムとなりえた。
最終話においては、このフラッシュバック、というか回想が実に効果的に用いられていた。「ゴール」した観鈴ちんに晴子が語りかけるシーン(これそのものは原作にもあったが)では、『神尾晴子』と名札の付いた古ぼけたランドセルを背負って喜ぶ観鈴ちんが、こうしたアニメであるから表現しやすい(或いは、表現できる)演出は、反則に近いものがある。
もっとも、やや過剰な点があったのは残念。銀色をBGMとした晴子とからす=そらの会話(というか晴子の独白)は、演出過多すぎてギャグにしか見えなかった。というか、青空からの盛り上がりの合間にあんな壮大な演出したら引くだけなんだがなあ。

まさか、最後にきちんと少年と少女を出してくるとは思わなかった。そらが飛び立って終わりにすると予想してたんだけな、俺。常に巻き戻して、或いは要所要所で自分で用意したセーブ地点に戻ってテキストを再読して伏線を読み返せるゲームとは異なり、「彼らには過酷な日々を、そして僕らには始まりを」はアニメではなかったほうがよかったんじゃないかとは思う(いや、AIRという物語でもっとも大事な挿話ではあるけれども)。ネット界隈の鍵っ子どもは、この言葉の解釈をめぐってもう何年も論争を繰り広げてきていたわけだし。
次回予告、13話は総集編ということをあらかじめ知っていたにもかかわらず、いきなり画面に流れる第一話を見て、ループ物、或いはなにか本編では尺の関係で(原作の構造上、尺だの問題ではないが)説明の足りない部分を補完してくれるんじゃないかと思ったのは、俺が京アニに過剰な期待を抱いているからにほかならない。

アニメ版AIRが全体的にすっきりしている件について

「ゴール」が比較的あっさりしているように思えるのは、あれがそこまでに至る二人のやりとりがあるために引き立つものであるからと思い。尺の関係で細かい部分をカットしたアニメでは、一文一文の積み重ねの結果としての「ゴール」を味わえない。

ちょっと細かい点なんだが、晴子と敬介の会話シーン、画面手前左に揺蕩ってるのは線香の煙なんだろうなあ。