その後の東国武士団

その後の東国武士団: 源平合戦以後 (歴史文化ライブラリー)

その後の東国武士団: 源平合戦以後 (歴史文化ライブラリー)

 東国中心に源平の争乱から早雲台頭までをざっくりおさえた「中世当校年代記」と、代表的な武士団の系図からその流れを概観する各東国武士団の消長の二部構成。
 基本的に東国の著名な武士団というものは、血筋は由緒正しいと称し鎌倉以前まで辿れるのがよくわかる。
蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

 8世紀、国郡制支配の領域を面的に拡大することを目指す律令制下の征夷を描く一冊。そのため元慶の乱までは範囲が及んでいないのが残念ではあるが、8世紀中の東北戦争で軍がどのように動いたか、京の政治はどのように征夷を指向していたのかについては詳らかにされている。


 桓武天皇の御代、延暦年間には軍制の一大改革があった。それまで律令制下では基本的に軍団制を敷いていたが、延暦11年(西暦792年)に東北諸国と太宰館内諸国を除いて軍団兵士制は廃止された。一般的にこれは軍兵の弱体化や国司の私的濫用、東アジア国際関係の緊張緩和を受けたと説明されることがおおい。兵役を終え帰郷すると国内上番が免除され国家財政に支障があったという点もある。一方で征夷を推し進めるうちに諸国の軍団を廃するというのは軍備を削減することに繋がるのでないかと思う。事実、たびたび東北の蝦夷が叛乱を起こせば東北各府の駐留軍のみならず東国の諸軍団、党は平定に動員されていたからである。本書によれば、それは「軍団の枠を超えた広範囲な動員を行」い「征夷大将軍のもとにし系統を一本化する」ためであったという。
 すでに延暦10年に任命された第二次征討軍将官は各種職を兼任し指揮系統を一体化していた。これは、延暦8年の第一次征討の失敗をうけてのものだという。どういうわけか第一次征討軍の中央派遣の征東使は動きが鈍く、胆沢の蝦夷を討伐するというのに手前の衣川に軍営をおいて動かずただいたずらに軍糧を浪費した。挙句に桓武天皇の勅を受けて進軍するが、征東将軍紀古佐美は衣川にさえいない。より安全な後方にさがっていたらしい。衣川には中央派遣の副将軍や鎮守副将軍らが作戦を立案したが、彼ら自身も進軍することはなかった。胆沢蝦夷征討には小規模な各級部隊指揮官に率いられた選抜兵6000が前中後3軍にわけられ攻めいった。蝦夷の抵抗が弱く北上川上流域まで押し込んだところで強力な蝦夷軍の抵抗を受け、後退しようとしたところ右翼山中から後方に奇襲を受け混乱、軍の主力は川に飛び込んで多数の溺死者をだした。前軍2000は川をわたることさえかなわなかった。敵将阿弖流為の陽動作戦の見事さもあるが、敗戦の責任に征東将軍の慎重な指揮にあり、また現地の各級部隊指揮官の間で連携がとれていなかったことは容易に想像がつく。そのため蝦夷軍に翻弄される結果になった。桓武天皇は敗因を高級指揮官が統一した指揮をとって攻め入らなかったためと分析し、将たちを激しく非難した。また戦場には選抜された6000の実戦部隊がむかったが、このとき桓武天皇が動員させた兵力は5万人に対してあまりにすくなすぎた。
 こうした失敗を受け、延暦13年の第二次征討では、将官陸奥国按察使・国司鎮守府官人など職域の重なる職を兼任し、征夷大将軍のもとに指揮系統を一本化しようとしていたが、本書では軍士も同様に統一化を図っていたと想定している。つまり、征夷軍はすでに軍団制ともとに幅広い動員をおこない、郡使子弟や不浪人をくわえた雑多な人びとで構成されていた。この編成では軍団制という区分は指揮系統一本化の邪魔にしかならない。軍団制を廃し、征夷軍を一元的に編成したとみる。動員に加わった地方豪族らがおおくが下級指揮官として実戦部隊に配置していたが、彼らを軍監・軍曹に任じて官制体系に位置づけているのも指揮系統の明瞭化によるものであろう。